プロフィール

いつも気軽に市民の相談相手

  • 1969年、川崎区小田生まれ。
  • 東小田小、田島中、県立新城高校卒業。
  • 川崎建築高等職業訓練校講師、川崎建築労組青年部書記長、川崎区保育園保護者会連絡会世話人を歴任
  • 現在、川崎市防災インストラクター、臨港消防団第3分団員、大島小学校PTA会長、 浜町二丁目町内会防災部長。
  • 防災士、 二級建築士、二級技能士(建築大工)
  • 市議会議員5期。総務委員会(総務企画局、財政局、経済労働局、臨海部国際戦略本部等)委員。議会運営委員会委員。都市計画審議会委員。 党市議団副団長。
  • 家族は妻と二男一女、浜町在住。

 

佐野よしあきの原点=一人一人が大事にされる社会をめざして

誰もが人として大切にされる「ふるさと川崎」をめざして

子どもの頃は、自転車を乗り回し、大師公園や交通公園(現桜川公園)、小田の防災センター周辺でよく遊びました。工作好きで父親の大工道具をいたずらしては、作業場で、船や住宅の模型をつくっていました。
中学2年生のとき自作の天体望遠鏡で土星の輪を見たときの感動は忘れられません。高校時代には坂本竜馬にあこがれて通学電車の中で「龍馬がゆく」を読みふけったものです。
一番の転機になったのは26歳の時、映画「月光の夏」の上映運動の実行委員長として鹿児島の知覧に行ったときです。家族思いで前途ある若者が、爆弾を命中させるためだけに、命を奪われていった特攻隊の事実を知り、大きな衝撃を受けました。こんなことは絶対にあってはならないと、才能ある若者が大企業のもうけの為に使い捨てにされる現在と重なり、一人一人が大事にされる政治に変えたいという思いを強くしたのです。

佐野よしあきのライフワーク=地震に強いまちづくり
きっかけは阪神・淡路大震災

1995年1月、6300人を超える死者を出した阪袖・淡路大震災。日増しに被害状況が拡大していく被害報道に、私はいても立ってもいられず、大工としてポランティア活動に参加しました。
行く先々のお年寄りの住まいでブルーシートを屋根にかぶせる作業でしたが、「おおきに、ありがとうございました」と、手を合わせて感謝されました。そのたびにこういうお年寄りが、この年齢で被災し、どれほど難儀をされているかと思うと、やりきれな思いでいっぱいになりました。
そのときの強い思いが「地震に強いまちづくり」をライフワークとして取り組むことを決意させました。

木造住宅の耐震改修助成を全市に拡大

「建物や家具の下敷きで、命を落とさないでほしい」と、私は木造住宅の耐震改修の必要性をくり返し主張し、ようやく05年から耐震改修の助成がスタート。当初「一部の地域」に限られていた対象も拡大させ、06年度から全市域が対象となりました。

地震の犠牲者は、いつも社会的経済的弱者

高齢者、障害者など災害時要援護者の対策が特に重要です。私は、東京都中野区などで実施している「登録制度」についてくり返し議会で取り上げ、川崎市でもようやく具体的な検討に入りました。
私は子どもたちを守る活動や、地域住民を含めた防災計画の策定について、具体的な取り組みを進めています。

もう一っの大きな課題、臨海部防災計画

臨海部では旧耐震基準の石油タンクなどが、338基も残されており、長周期地震動によるタンク火災ヘの対応が迫られています。また老朽化する装置産業ヘの耐震対策も急がれます。私は、県まかせでなく川崎市としても実態調査を進めるなど防災対策の強化を強く求めています。また埋立地の液状化など護岸の耐震補強について、国ヘの働きかけを含め、早急な対策を求めています。

ズバリ聞きたい

政治家になって一番嬉しかったことは?
いろいろありますが、田島擁護学校の子どもたちが、通学パスが一台しかなく、2時間もかけて通学してぃると聞き、通学バスを増やすよう求め、取り組んできました。補充が実現し、お母さん方から感謝された時です。

議員として一番苦労したことは?

質問を組み立てること。事実に基づいて、一つ一つ積み上げていく作業はなかなか大変な作業です。特に、委員会での質問は、ぶっつけ本番ですから大変苦労します。