活動レポート

広島 (その2)

2014年8月12日

似島の旧陸軍の施設を見学したあと、慰霊碑の前で、簡単な慰霊祭が行われました。
旧暁部隊の隊員だった方の手記が読み上げられた時に、本当に切なくなりました。

戦争末期で、海外からの帰還兵がいなくなった似島には、5000人分の医薬品が保管されていたということで、原爆直後から野戦病院となりました。その看護にあたったのが暁部隊です。この隊員だった方は、9日までどうやって食事をし、どうやって寝たのかわからないほど、次々と運ばれてくる大量(一万人)の被爆者の手当てを続けられました。
傷口から細菌が入り、壊死してしまった手足を切り取る手術によって、切り取られた手足を置く場所がなく、窓から放り出すしかなかく、あまりにも大量で、窓枠を越える高さまで積み上がったということです。
3日で薬は底をつき、助けたくても治療の施しようがない中で、暑い夏の日差しにさらされる負傷者を放置せざるを得なかったと言うことでした。
戦後になってもその方々のことが忘れられず、その思いを碑に残されています。
地獄絵図のような中で、身をよじられるようなもどかしさにさらされ、どれ程の苦しみと悲しみだったことでしょうか。

かける言葉もなく、ただただご冥福を祈り、その場をあとにしました。

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似島小学校の体育館で昼食をとり、被爆者の横見靖夫さんのお話を聞きました。
14才だった横見さんは、母親と3才の弟と横になって居たときに、原爆に被爆し、崩れた家の下敷きにんなったそうです。
母親と横見さんは助け出されましたが、3才の弟だけが燃え移った火の中から助け出せず、亡くなったということです。3才の弟の名前が、私と同じ「よしあき」君と言うことです。偶然とは言え、本当に驚きました。
お話の中で、「よしあき、よしあき」と呼ばれる度に、身内を見殺しにしてしまったという後悔の思いに身を引き裂かれる切なさが伝わって来ました。
横見さんは、さらに中学校1年生の弟も原爆で生き別れになりました。ある時、似島で発見された遺体から、弟の通う学校のボタンが見つかり、もしかしたら弟かもしれないと、それ以来、毎年似島に大阪から通われているそうです。

想像を絶する惨劇をくぐり抜け、今なお生き別れた家族の消息を探し続ける横見さんの姿に、原爆はどれ程罪深いものであるのか、改めて深く感じました。