活動レポート

宮城県気仙沼市の被災地支援を行って(その3)

2011年5月23日

被災地では、いろいろな方からお話を伺うことが出来ました。

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最初に、港を視察したときには、瓦礫の間を歩くAさん(70代女性)に出会いました。

1階部分がすべて流され、柱と土台しか残っていない家の2階で、瓦礫を片付け、高齢の夫婦でなんとか暮らしているといわれました。

「昔から、津波は私の家までは来なかったので、地震があるといつも私の家が避難所みたいになっていた。

当日も、海岸で働いていた人たちが、地震直後に内に集まって、治まるのを待っていた。

私は、集まった人にお茶を入れた後、知人のおじいさんが海のほうにいくのを見て表に出た。そしたら、前から走ってくる人たちが、『おい、あれを見ろ。津波が来るから早く逃げろ』というので、沖を見たら、黒い壁のような並みが迫っていた。慌てて自宅に避難している人たちに声をかけ裏の高台まで必死で逃げた。

一晩、寒さに凍えながら何とか夜を明かした。あたりは一面火の海だった。

瓦礫を片付け、1階の洋間と、2階の部屋で何とか暮らせるようになったが、スーパーも流されて、食料も配られたものを切り詰めている。食べるものがない」と訴えられました。

私は、地元の方と相談して、後で食料を届けるからと約束してその場を離れました。

また、ある町内会長夫人は、自分の家は高台にあって被害を間逃れたが、夫が、低いところに住んでいる町内会の人たちの安否確認を行き、津波に襲われて亡くなったと話していました。

ある冷蔵庫会社では、地震発生後、社長が社員に対し、「ここから出たらクビだ。みんな出るな」と言われ、逃げずに残っていたが、一人だけどんなことになってもいいからと逃げた人だけが、津波から間逃れ、生き延びることが出来たという話をうかがいました。

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また、支援物資を求めてこられた高齢の女性は、鉄道の車両が津波で、自分の田んぼに横倒しになったままの状況を指差し、「うちの田んぼはもう駄目だ」とため息を漏らし、「遠いところから本当にありがとうございました。ありがとうございました」と何度も礼を述べるのです。

私は、ただただ、「体に気をつけて、元気でいてくださいね」というのが精一杯で、切なさがこみ上げてきました。

本部への帰り道、道路の両側が、見渡す限りの瓦礫の山で、このあたりは一体どういう町だったんだろう。瓦礫の下には今も、遺体が埋もれているのだろうかと考えながら、こういう状況を見たら、消費税を上げて復興財源になどとは、よく言えたものだと怒りがこみ上げてきました。

今回の支援を通じて、被災地の被害の状況は途方もなく、継続した支援を必要としています。

これからも、息の長い取り組みになっていきます。

今回、老若男女総勢17名が参加しました。それぞれ、現地でしか感じたり学ぶことができない大切な経験をしたと感想を語っていました。 IMG_1871

今後は、参加者それぞれが、現地で体験したことを多くの人たちに伝え、支援の輪を大きく、大きく広げる取り組みをしてくれることを願っています。

私も引き続き、あらゆる手段を通じて、支援を続けたいと思いますし、皆様に現地の様子を伝える機会を持ちたいと考えています。皆様に頂いた、支援物資は、すべて残さず被災者の方々にお届けしました。本当にありがとうございました。